MoriCafe アメリカから最新のローフードや糖質制限情報

フロリダの4つ星ホテルのシェフが送る美味しくて体に優しいお料理やライフスタイルをお届けします。

Mori Cafe プロローグ 始まりの終わり #9

結局のところ、私は専業主婦には向いていなかったのだと思う。

息子が赤ちゃんの時は、仕事をしたいとは思わなかったけれど、1年ほどの休業のあと、私は何かしたくてウズウズしていた。

 

仕事をしている方が、家事をきちんとしなくても良いと言う大義名分があることにも、賢い私は気がついていた。

 

何かしたいな。。と思っていたところに、たまたま、私の住んでいる町で一番大きなホテル(と言うよりも、この街はそのホテルが出来たところから始まったと言っても良いといいくらいの存在であった。)にその時に私が参加しているテニスのリーグの試合のために向かった。

 

このホテルはプライベートリゾートで、会員制でもあり、私のテニス相手がそこのメンバーだったのだ。私の対戦相手は、試合のアレンジをした時に、車を(私がつまりメンバー以外が。)駐車するのに20ドルかかると言ってきた。彼女がホームなので、私が払う必要はない。もちろん彼女は駐車料金は彼女が持つと言った。

 

でも、私はそのホテルから歩いて行ける距離に住んでいた。そこで、私は彼女に聞いた。私が歩いていけばお金かからないよね。。。と。

 

私は、そのホテルに歩きながら、考えていた。なぜかと言うと、そのホテルには高級日本食レストランが入っていて、そこのシェフは私の友達の旦那様でもあった。

 

歩いていける距離で働けたらこんなに良い事はないよなぁ。。。。と。

フレンチベーカリーで食の道をかじった私は、料理の世界に興味を持っていた。

 

そこで、ダメ元で、友人に聞いてみた。そうしたら、ちょうど空きがあると言う事で、話はトントン拍子で進んでいった。

 

料理学校や調理師免許を持っていない私のためにシェフははじめ私をウェイトレスとして、3ヶ月ほど働かせて、その後に私を調理場に入れてくれた。

 

そこで、5年間みっちりと寿司を中心とした日本料理を教わった。

 

その間に、私の食生活も変わっていった。

 

一番大きな変化はお肉類を食べなくなった事だ。その少し前から、ローフードに興味を持った。新鮮な生きた食べ物を体に取り入れる心地よさにはまっていった。

 

そして、私はそのホテルの中で、冷製物を専門に扱うGarde Manger (通称コールドルーム)と言われる部署に移動した。

 

この部署は、サラダやサンドウィッチ、アペタイザーなどを扱うことが多く、もちろん冷製だったら、なんでもなので、野菜だけではないけれど、私の興味に一番近い職場であった。

 

そうして、食の道を色々と模索した結果、私は人生で初めて、自分がこれを届けたい。と言うものが出来てきた。

 

体に優しく、体が喜ぶ、そして、美味しいお料理。そして、それに関わる全ての物を紹介していけたらこんなに幸せな事はないのではないかと思うようになった。

 

そう、ここで、やっと始まりの終わり。

 

これからは、私が今まで学んできた物をみなさまにシェア出来たら良いなと思う。

それが、皆様の生活に少しでも何かの形で役に立ってもらえればと言う願いを込めて。

 

(プロローグ終わり。)

 

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Mori Cafe プロローグ 始まりの終わり #8

息子が2歳半になった頃だろうか。。

 

旦那が職種を変えたいと言ってきた。私はもちろんいいよと言った。本人が変えたいと言っている。反対する理由はどこにもなかった。

 

しかし、ヘルプは必要になった。私はパートに出ることにした。

メイクやヘアーの仕事に帰ろうとは思わなかった。

 

また、初めから築いていくのは大変だったし、不規則な生活は子育てに優しいものではなかった。

 

実は私は高校を卒業する前に悩んだ進路は、メイクアップアーティストか料理人であった。

 

どちらも、手に職、悩んだ末に選んだメイクアップアーティストの決め手は、料理人だと夜が遅いという事だった。

 

そして、子育て中の私が選んだパートはその料理人意欲も叶えてくれる、近所のフレンチベーカリーで働く事だった。

 

このベーカリーは、フランス人の夫婦が経営していて、私の住んでいる町では抜群に美味しいベーカリーだった。

 

そこで、パンやケーキの販売はもちろんサンドウィッチやサラダ作り、ペイストリーシェフのアシスタントや、ウェディングケーキのアレンジなどいろいろなことを学ぶことが出来た。

 

ある程度、旦那の仕事の方も落ち着いてきたこともあり、何年か経った頃に私はその仕事も辞めて、再び専業主婦に戻った。

 

しかし、ある程度大きくなっていた息子は、(学校行き始めていたので。)前ほどいつも一緒にいれるわけでもなく、ベーカリーを辞めて一年ほどぷらぷらしていた私はまた何かをしたいと思い始めていた。

 

(続く。)

 

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Mori Cafe プロローグ Change #7

私は、息子が生まれてからも、メイクの仕事には戻らなかった。

移動が常な事にも、ちょっと疲れてきていたし、何よりも息子と一緒にいたかった。

 

でも、ニュージャージーにいた時は友達が日本語の図書館を経営していた関係もあって、そこで、たまにメイクの教室なんかをやらせてもらっていた。

 

基本は子育て、たまに息抜きも兼ねて、お仕事。いい塩梅だった。

 

しかし、状況は刻々と変化していくものだ。

 

まず、旦那の仕事があまりうまくいかなくなり始めていた。

それに伴い、フロリダとニューヨークと両方の不動産をキープするのは難しくなった。

 

実は、子供ができてから、(ニュージャージーの方が日本語学校などもあるしハーフとして育てるには良い環境なのではと思っていた。)フロリダの方は売りに出してみたことがあった。

でも、なかなか売れずに、市場にずっと出しているのは良くないという事で、引っ込めていた。

 

そして、今度は、本格的にどちらかは売らないと、ということになり、私たちは、両方のアパートを同時に売りに出した。

 

そうしたら、ニュージャージーの方が2週間もしないうちに売れてしまった!

 

NYに振られた気がした。。。。

それと同時に、そういう事なのか。。。。というみょーに納得にも似た諦めた感情も湧いてきたのを憶えている。

 

そして、私はフロリダのフルタイムレジデンスに逆戻りしてしまった。

都落ちである!

 

しかし、小さい男の子を抱えた母は強くなっていた。

 

ニュージャージでもそうだったのだが、私は、シングルの時から、友達はみーんな揃いも揃ってシングルの方達ばかりだった。別に選んでいるわけではなかったが、周りにフロリダもニュージャージーも含めて、子持ちのお友達は、たったの一人しかいなかった。

 

なのに、子供ができた途端にどこからか、ネットワークがぐっと広がり、いわゆるママ友がどさっと出来たのである!

 

これは、本当に助かった*

何せ、親戚が近くにいない海外での子育てである。

みんなで、色々と相談できる事が何とありがたかったことか。

また、どんなに愛しているとはいえ一日中赤ちゃんと遊び続けることもできないので、

遊びが仕事の赤ちゃんにとっては、他のベビーと遊べる事は絶対に必要だったと思う。

 

そして、もともと、フロリダは日本人が少なく、息子以前は1人しかいなかったお友達も息子と一緒に戻ってきたら、あっという間に日本人コミュニティーの中に入れて、素敵なお友達がたくさんできた。

 

良いお友達にも恵まれて、この頃から、私は本格的に心も体もフロリダンとなってフロリダを楽しむようになっていった。

 

(続く。)

 

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Mori Cafe プロローグ Mother Hood  #6

まじでっ!!

 

きっと私を若い頃から知っていたお友達は心の中でそう思ったのではないだろうか。。。

 

実際、結婚する旨を母親に報告した時にも、母に『へぇ。。そうなんだ!あんたは一生結婚しないと思っていたよ〜。』と言われたくらいだ。

 

結婚する時でさえ、以外に思われたくらいである。

しかも今度は、一つの生命を生み出す大役である。

 

しかし、お腹に芽生えた生命はこっちの事情や感情などおかまいなしに、自分のペースで、どんどん成長していく。

 

私は、女性が柔軟性にとんでいるのは、新しい生命に一番関わらなければいけないのはやはり、母親になりうる女性という存在だからではないだろうか???と今になって思う。

 

生命の誕生ほど、神秘的で、強力なものはない。なぜならどんなに医学が発達したとしても100%コントロールする事は不可能だからだ。(と、思いたい。。。)

 

とにかく、どんなに努力しても、(子供が)できない時は出来ないし、でも、出来たらその成長を基本的に。。。止めることは出来ない。『まった!』は効かないのだ。

 

それが、自分の体の内部レベルで起こる。尋常ではない対応力が必要とされるのではないだろうか。

 

頭で思い描いたものがいつもそのとうりに行くとは限らない、女性は自分の体を通じてそういう事を深く学んでいるのではないだろうか。。。

 

妊娠期間のいうのは、本当に特別な刻だった。やはり、自分とはいずれ違くなる個体のエネルギーが自分の中にいる、自分だけではない感覚。でも、ただ、もう一つの存在がいるというだけではなく、同時に宇宙からの応援エネルギーを受けているようにも感じられた。

 

一番、その時に突飛した能力のいうのが、他の妊婦さんとのテレパシーだった。

街で妊婦さんに会うたびに、お互いの子供を宿している、という神聖なエネルギーを交換しあって楽しんでいた。

 

本当に不思議な感覚だった。その時はこのテレパシー能力のようなものがずっと続くかと思っていたけれど、今、街で妊婦さんを見かけても、あの時のような感情の高まりは見受けられない。もちろん、『Good Luck!』とは思うけれども。。。

 

そして、お腹の赤ちゃんが大きるなるにつれて、私はますます、確信を持っていった。

 

お世話するのは私かもしれないけど、ボスはこの子だ。。。


(続く。)

 

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Mori Cafe プロローグ FL  #5

なんだかんだど、NYとFLの生活をそれなりに楽しむようになっていたある年の夏。

 

最初に異変が起きたのは、NYでメイクのアシスタントしている最中だった。

 

仕事中なのに、まるで、時差ボケにでもなったみたいに急に睡魔とだるさが襲ってきたのだ。おかしいと思いながらも、仕事を終えて、家に帰ってソファーになだれ込むように倒れてそのままその日は眠ってしまった。

 

それから、2−3日そんな感じだった。家にいる時は何にもする気になれずに、窓際にあるソファーから外を眺めていた時に、もしかして??と思った。

 

すぐに薬局に行って、そして、調べてみた。

 

赤ちゃんができたのだ。。。。

 

はっきり言って、結果を見た瞬間は頭を殴られた感じがした。

私は心の準備が全く出来ていなかったのだ。

 

結婚していたから、旦那と子供の事を話すことはあった。

 

でも、いつもお互いに、色々というのだけれど、まぁ、作るとしても2−3年後だね。。。というあやふやな結論にいつもおちついていた。

何年ったてもいつも、2−3年後。。。そう、一生その2−3年後はこないかもしれない。。。ただ、お互いに子供が欲しくないとはっきりとは断言したくなかった。そんな感じだった。

 

そして、妊娠の事実を知った私は、2−3分は放心状態に陥っていた。。。

真っ白になった頭に、最初に思考が戻ってきた時に思ったのが、どうする?だった。

 

その声に対する答えは、すぐに来た。

 

『この子は産まれたい。』 そう感じた。

 

そして、私の世界もその瞬間に変わったのを覚えている。脳みその中の側面が変わったように感じた。

 

そう、まるで、ルービックキューブの側面をガチャっと換えるように、思考がよじれたとでも言えばいいのだろうか?

 

私は母親になる*

 

私の中で、新しい未来と価値観が芽生えた。

 

(続く。)

 

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Mori Cafe プロローグ FL #4

911から9ヶ月後には、私たちはフロリダに移動していた。

親戚も友達も一人もいないフロリダになぜ??

今でもあの時の事を考えると、どうかしていた。としか思えない。

 

唯一の理由は、旦那の会社の支店があったという事だったが、当時どこからでも仕事ができていたので、別に会社の支店があるところでなくても良かったのだ。。。

 

なぜ、あの時、ハワイとかせめて、同じ南国でも日本に近くなるようなところにしなかったのだろう。

 

いや、そもそも、私は南国なんかにはとんと興味はなかったのだ。

 

彼が、もう都会では暮らしたくない。という意向だったので、シアトルやサンフランシスコも却下になっていた。

 

フロリダに引っ越してから何度、失敗した。と思ったか数えきれない。

 

私は、完全にNYを引きずって生きていた。

 

灰色のNYから、逃げてきたのだが、フロリダにいても私の心は、輝く太陽とは裏腹に灰色のままだった。

 

それでも、人生は続くもので、私は主婦をしながら、メイクアップの仕事もちょこちょこと、やり始めたりもしていた。

 

けれど、やはり、NYが恋しいという気持ちは日に日に募り、何年かたった最終的には旦那に頼み込んで、NYと(といっても、マンハッタンはやはり無理で、ジョージワシントンブリッジを挟んだハドソン川の向かい側フォートリー、NJ)とフロリダを行ったり来たりする生活をするようになった。

 

フロリダにいる時は、マイアミまで仕事をしに行くことが多かった。

私たちの住んでいるところからだと、渋滞なしで50分から1時間くらいの距離だ。

 

マイアミの仕事は、多くが、海と輝く太陽、そして、サウスビーチのナイトライフ、という雰囲気を求められる仕事が多かった。

 

おしゃれなサーファーの髪型を作るのに、霧吹きに海水を入れて、ヘアーワックスと混ぜたりとか、色々とビーチ仕様の技なんかも学んだりして、面白かった。

 

NYでは、結構大きなアーティストのアシスタントに就く仕事が、多かった。

Vogueの表紙の撮影でアシスタントとしてハンプトンに行ったこともあった。その撮影の事は今までのメイクアップアーティストとしての仕事の中で一番印象に残っている。フォトグラファーは違うかもしれないけれど、Vogueくらいの雑誌になると基本的にみんなタダ働きだ。

 

もちろん、雑誌に名前が載る!その写真がポートフォーリオの最大の武器になるのだ。そして、大口の仕事が入る。それが一番の目的だ。

 

だから、みんな、妥協しない。もちろん、どんな仕事も妥協はしないのだけれど、大口のお金になる仕事は、スポンサーの鶴の一声で、どんな事でも、アーティストの意思とは裏腹に変えなくてはいけない事もたくさんある。

 

みんなで、最高の物を作る。という空気が満ち溢れている現場だった。

 

印象的だったのは、男の子側のメインのモデルが、イタリア人で、全く英語が話せなくて、撮影が始まるまでは、大丈夫かな?この子。。。というくらい挙動不審だったのが、カメラの前に立った途端、顔が変わって、こっちがドキドキするくらいの眼力で彼とカメラの間に気持ちの良い緊張感ができたの瞬間を観れた事だった。

 

その時まで、その子がメインのモデルだとは気がつかなかったくらいだ。

マンハッタンから、バスで移動している間は、他のモデルの方がかっこいい。と思っていたくらいだ。

本物って、やっぱり違うな。。。と思った瞬間だった。

 

もちろん、モデルでも、いろんなタイプの人がいる。

最初っから、他の惑星から来たのか?っていうくらい、普通の地球人とは見た目もオーラ違うっていうくらい、綺麗な子も見ることが出来た。

 

(続く。)

 

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Mori Cafe プロローグ NY #3

旦那は私にとって、初めて会った ”結構日本語が話せる外人” だった。

 

私に会う前に7年ほど東京に住んでいたという。

 

何かと楽だな。。。と思った。

日本人でもないけれど、日本を知らない外国人でもない。日本語で話してもいいし英語で話してもいい。中途半端な馴染みやすさがありがたかった。

 

2001年の9月11日の朝。私はミッドタウンの私のアパートから彼のローアーイーストサイドあるアパートに地下鉄で荷物を運んでいた。

 

地下鉄を降りて地上への階段を上がって行く途中、何人かの消防士とすれ違った。みんなかなり急いでいた。

地上に出ると、目に見える全ての人が立ち止まって同じ方向を見上げていた。

 

私は最初誰かがビルの屋上からでも飛び降りようとしているのではないかと思った。

 

私の位置からはどうなっているのか見えなかったので、ビルの角を曲がると、ツインタワーの片割れの途中から煙が出ていた。

 

なんて事だ!と思った。なんて事だ!とびっくりして、2−3分は眺めていたが、もともと戦争経験もなく、大きな災害といったら、幼稚園の時に当時の私の足の膝くらいまで、実家の裏の川が氾濫して洪水になったことくらいしかなかった私は、完全に平和ボケの思考回路しかなく、煙の上の人どうなるんだろう。。。ヘリとかで助けられるのかな。。と思いつつも、1週間ほど前から、買おうか買わまいか迷っていた、CDラックをもう一度見に行こうと前の日から決めていたソーホーのお店足を運ばせていた。

 

そのお店に行く途中に最初のタワーが崩れた。

 

その瞬間、その辺りにいた半分くらいの人たちが叫んだり、泣き出したりして、タワーとは反対方向に逃げ出す人が出てきた。

 

さすがに、私もこれはやばい。。。と思い、彼のアパートに向かった。

それから、3−4日はツインタワーから大量の煙がで続けていた。

 

私たちは、タワーから3キロくらいしか離れていなかったので、窓を閉めていても煙かったくらいだ。ただ風向きが幸いなことに南東に向かって吹き続けていたので、直接煙が来ることはなかった。

 

しかし、煙だけでなく、街のエネルギーも灰色になっていた。多くの人が体調不良になっていた。私も、風邪のようなものを引いた。

その頃のNYは私の記憶の中でも、灰色の後継としてしか思い出せない。。。

 

いたるところに警官が立っていて、道路を横断するのにも、身分証明書を見せなければいけないところもあった。

 

仕事も再開のめどがつかないし、テレビや電話なども繋がらない状態でもあり、かといって、シティーの中で、遊ぼうという気にももちろんなれず、これはちょっと離れて離れてみよう。ということになった。レンタカーで彼の家族の別荘がニュージャージーのロンクビーチアイランドにあったのでそちらに週末旅行に行くことにした。

 

マンハッタンを離れた途端に、エネルギーが変わった。空が、灰色から青に変わった気がした。NYを後にしてホッとした感覚を味わったのはその時が初めてだった。

 

そして、ホッとした自分が悲しかった。

 

(続く。)

 

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